次の10年、映画監督はどう生き抜くか?日本映画監督協会90周年シンポ
シンポジウムの参加者(左端は松島哲也・実行委員長)

報告者・立花珠樹

 

 日本映画監督協会の創立90周年イベントが226日、東京・半蔵門のベルサール半蔵門で開催された。

 同協会の歴史は、1936(昭和11)年225日、二・二六事件勃発の前日、初代理事長となる村田實はじめ、伊丹万作、衣笠貞之助ら5人の映画監督が神田駿河台に集まり、設立を決定したことから始まった、直後の3月1日に発会式が行われた。

 創立90年の今年、同協会が企画したシンポジウム「NEXT10 監督として生き抜くために!」には、3040歳代の若手監督、プロデューサーら6人が登壇、日本映画界の現状や問題点について、積極的に意見を交換した。

 「監督協会は10年後には100周年を迎えるが、映画監督はこれからの10年、果たして職業として存在していけるのだろうか。そうした危機感からこのシンポを企画した」

 司会者を務めた本木克英理事長の冒頭の言葉は、映画について書く仕事が危機的な状況に直面しているわれわれ、日本映画ペンクラブの会員にとっても、共通する問題であると感じた。

 シンポは、監督たちがどのようにデビューし、キャリアを構築してきたかという個人史や現在の状況、生成AIとの向き合い方、労働環境の改善と監督の権利、という三つのテーマに沿って、2時間半にわたって行われた。

 登壇した監督は、「新聞記者」「余命10年」「正体」などで知られる藤井道人、「男の優しさは全部下心なんですって」などの、のむらなお、「東南角部屋二階の女」「鬼の花嫁」などの池田千尋の3人。さらに、ドキュメンタリー映画の監督でもある松倉大夏がフリーランスの助監督を長く務める立場から参加。「怪物」「ゴジラ-1・0」「8番出口」など国際的なヒット作を次々とプロデュースしている山田兼司、文化庁参事官として次世代のクリエイター育成に尽力している田村順也も加わった。

 興味深かったのは、監督たちがいずれも学生時代に自主制作で映画を作り始め、さまざまな人との出会い、「縁」でチャンスをつかんできたという体験談。それぞれのエピソードにドラマがあった。また、いったん監督としてデビューできても、その後苦しい時期が到来することや、スタッフやその家族の暮らしを考えると不安になってしまうことなど、経済的な悩みや将来の不安を訴える声もあった。日本映画を長く支えてきた独特の助監督システムが崩壊し、撮影現場で助監督が不足している深刻な状況も報告された。

 山田プロデューサーからは、国内市場が曲がりなりにも成立していたために日本映画界が内向きだったという指摘や、クロエ・ジャオら海外の優れた監督も「自主制作」からスタートしているという事実、商業性とアート性の間で葛藤する映画製作にとってプロデューサーが果たすべき役割など、インパクトのある発言があった。

 シンポジウムを通して、さまざまな意見を自由に述べ合える開放的な雰囲気があったのが、印象的だった。1963年生まれで87年に松竹に助監督として入社し、2022年から日本映画監督協会の第9代理事長を務める本木監督が、86年生まれの藤井道人ら若い監督に、司会者として率直に疑問をぶつける姿勢には、共感が持てた。協会が闘い続けてきた映画監督の著作権問題についても、若い世代のさまざまな意見を聞いた上で、前に進めていこうという意欲が感じられた。

 

山田洋次監督(中央)と本木克英理事長(左)、藤井道人監督(右)
パーティーの司会進行を務めた内藤剛志らとともに記念撮影に臨んだ横浜流星

日本映画監督協会は現在、会員数430人。シンポジウムの後開かれた祝賀パーティーには会員、非会員を併せて200人以上の監督と映画関係者多数が参加。第7代理事長だった山田洋次監督や、俳優の横浜流星がお祝いに駆けつけるなど、華やかに盛り上がった。

 冒頭にも記したが、映画の作り手たちが今抱えている問題や危機意識を知ることは、日本映画ペンクラブの会員にとっても、意義があると思う。この報告が、今後、日本映画監督協会と当クラブとの交流を深めていく一つのきっかけになることを願っている。