
推薦者・立花珠樹
「ノマドランド」(2021年)で米アカデミー賞作品賞、監督賞などを受賞したクロエ・ジャオ監督の新作「ハムネット」は、劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564~1616年)の最高傑作といわれる悲劇「ハムレット」が誕生する背景にあった家族のドラマを、静かに力強く描いた映画だ。
原作はアイルランドの作家、マギー・オファーレルが2020年に発表。英国で最も権威がある文学賞の一つである女性小説賞や全米批評家協会賞を受賞し、日本でも21年に翻訳・刊行された同名の小説。「ハムネット」とは、11歳で病死したシェークスピアの一人息子の名前だ。
プロダクションノートによると、彼の死についてあまり語られることのない詳細を、約30年前にオファーレルが発見したことが、執筆の動機となった。「彼がいなければ、『ハムレット』は存在しなかったでしょう」。その言葉を後押しするように、映画の冒頭には、こんな字幕が出る。「ハムネットとハムレットは実際には同じ名前で、16~17世紀の記録文書ではどちらでもよかった」
さて、ここまで読んで、どんな物語を想像するだろう?
原作が高く評価され、原作者と監督の2人の女性が共同で脚本を執筆した映画が成功したのは、この物語の主人公が、大方の人が予想するだろうシェークスピアでも、ハムネットでもなく、シェークスピアの妻でありハムネットの母であるアグネスであることが、大きな理由だと思う。
作り手たちの力は、シェークスピアの偉大さや、「ハムレット」がいかに人間性の深淵を見つめた作品なのかなど、普通の伝記映画なら詳しく説明しそうな部分には注がれない。彼らにとって大切なのは、革手袋屋の息子として生まれ、普段は子どもたちに語学を教えているシェークスピアが、教室の窓からたまたま見かけたアグネスに、ひとめぼれする瞬間を、誰にでも本当に起きることとして共感できるように映像化することだ。
森を愛し、鷹を操り、薬草の知識に優れ、神秘的なアグネスは「半分は森の魔女の娘で、もう半分は教会に通う淑女の娘のような」(ジャオ監督)女性だ。そして、アグネスを演じたジェシー・バックリーに、演技とか適役とかいう言葉を超えた実在感があるためだろう。映画が見ているうちに、アグネスとともに森の中を歩き、太陽の光を浴び、雲を眺め、風に吹かれているような不思議な解放感を味わえる。
バックリーが、米、英のアカデミー賞をはじめ、名だたる賞で主演女優賞を受賞したのは当然の結果だし、彼女の魅力を引き出したジャオ監督の演出力、「関心領域」などでも知られる撮影監督ウカシュ・ジャルの映像の力にも舌を巻いた。
心に残ったのは、アグネスに、義母メアリー(エミリー・ワトソン=名演)が語る「与えられたものは必ず奪われる。だから、子どもたちの笑顔を当たり前だと思ってはいけない」という言葉だ。母親が命がけで産み落とし、家族の愛情をいっぱいに受けて育っている子どもでも、いつ、どんなことで生命の危機に瀕するかもしれない。この世に生を受け、無事に大人になり、命を全うする。それは、思っているよりずっと困難なことなのだ。そして、残念なことだが、そのことは決して過去の話ではない。疫病の恐怖は薄れたかもしれないが、今、この瞬間も、戦争や飢餓で、かけがえのない子どもたちの命が奪われ続けている。
もちろん、この言葉は「ハムレット」の中の有名なせりふ「人の世の習いではありませぬか、すべて生ある者は死に、生身(なまみ)のこの世から永遠(とわ)の命のあの世へと移るのは。」(岩波文庫、野島秀勝訳)にもつながっている。
饒舌で、情報がぎっしり詰まり、スピード感にあふれた映画が主流になっている時代、シンプルだが、根源的な生と死の問題を提起する作品だ。
配給;パルコ ユニバーサル映画
4月10日(金)公開


